無憂扇きゅう(むゆうせんきゅう)

有限会社くす無憂扇(くすむゆうせん)

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会員様の体験発表

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発表者/関谷 真由美 先生

間質性肺炎

私がびわきゅうに出会ったのは去年の8月です。

7月の終わりに母が間質性肺炎と診断されて入院しました。

間質性肺炎は、肺の組織が何らかの原因によって、繊維化をおこしてしまい、肺の組織が硬く縮んでいくことで、呼吸をすること自体にトラブルが発生し、最悪、生命の危機をも招いてしまうこともある疾病です。

間質性肺炎はウイルス性のものや膠原病の治療の副作用で発症したりするものがありますがそれ以外の原因不明の間質性肺炎を特発性間質性肺炎といい特定疾患を受ける難病とされています。

検査の結果
母はその特発性間質性肺炎でした。

母が入院して受けた治療はステロイドパルス療法という治療です。3日間、ステロイド薬を大量に点滴する方法が、ステロイドパルス療法です。具体的には、1gのステロイド薬を、ブドウ糖液250〜500mlに溶かしたものを1〜2時間かけて点滴で静注していきます。
これを3日間続けていきます。ステロイドはとても強い抗生物質なので副作用も心配でしたが主治医の先生は多分この治療で治るだろうと言ってくれてたし、母もステロイドの影響でとても元気になっていたので私たち家族は安心していました。

入院して10日程経ったときに一回目の検査結果が出ました。姉と聞きに行くはずだったけど、母も元気そうだし姉も仕事だったので私が一人で聞きにいくことになりました。病院に着くと看護婦さんに「関谷さん、別の部屋を用意してます。」と言われ奥の小さな部屋に通されました。

主治医の先生に「お母さんの体はステロイドが効かない体質で、この治療は全然効果がなく入院したときよりすごく悪くなってる。このままだとあと10日から2週間で自発呼吸ができなくなり人工呼吸器をつけることになります。」と言われました。
私もそれまでに間質性肺炎について調べていたので、これ以外に治療法がないことを知っていました。

だんだん頭の中が真っ白になっていって何を聞いたのかあまりよく覚えてませんが、先生に「このまま肺が固まって呼吸が出来なくなって人工呼吸器をつけてもあと1ヶ月もつか分からない。話せる間に親戚や話したい人を呼んであげてください」と言われたことは覚えています。

私は車に乗って泣きながら姉に電話をして先生に言われたことを話しました。。突然の悪い結果に姉もとても動揺していました。それから私は長い時間ただただ、泣き続けました。何時間も1人でいろいろ考えていましたが、やっぱり今の気持ちを分かり合えるのは姉しかいないと思い姉の家に行きました。これからどうするか!誰に連絡するか!お父さんにはいつ言うか!この一週間で私たちに出来ることは何か?・・・・。話し合ってる間も涙が止まりませんでした。

そのとき、それまで黙って私達の話を聞いていた兄が「びわきゅうっちあるんやぁ!」と話し出しました。兄は正洋さん(代表の息子)と古くからの友人という事もあり、研修センターの工事などもさせてもらった縁でサチコ先生(くす無憂扇の代表者)をよく知っていました。サチコ先生が病気の時も知っていて、当時先生が1人で歩くことも出来ないほど悪かったのに、今すごく元気なこと、びわきゅうでたくさんの奇跡が起きてることも教えてくれました。

私は半信半疑でしたが、次の日兄と初めてこの寺床に来ました。兄がサチコ先生に母の病気の説明をしました。話を聞いた先生は「あんた何でもっと早く言わんかったん!!」と怒ってました。
先生は症状を聞いて早ければ間に合ったのに、相談に来るのが遅いと思ったのだと思います。しかし、しばらく考えてサチコ先生は「しょーがねぇ!今日の予定は全部キャンセルや!」と言って母におきゅうする予定をたててくれました。

私たちは急いで大分に戻り病院に外出届けを出しおきゅうを当ててもらう準備をしました。でも病院は今の状態で外出するのは危険と言って許可をくれませんでした。さらに母もステロイドの投与が終わってしまったので急激に体調が悪くなっていて、今日は息ができないし苦しいから帰らないと言いだしました。父も母が危険な状態なのを知らないため「病院の先生が悪いって言うなら連れて帰らないほうがいい」と言いましたが、このまま病院に居ても死ぬのを待つだけだと思い私は一生懸命先生に頼み込みました。最後は正直にびわきゅうをするので、1時間だけでいいから外出させて下さいとお願いしました。

4時間ほど頼み込んで、やっと許可がおりました。次は母の説得でした。母も自分の本来の状態を知らないうえ、おきゅうなどは退院した後でもいいのではないか・・・おきゅうなどしたことないからイヤだ!と拒否していましたがなんとか説得すると、しぶしぶ外出してくれました。

その日の夕方、母は車椅子で酸素をつけて家に帰りました。その時母は息が出来なくて苦しそうで顔色も悪く今にも死にそうな顔をしていました。私は怖くなって少し後悔しましたが、「病院に戻っても一緒だ!」と強く自分に言い聞かせました。

家に帰るとサチコ先生とあきらくん(スタッフ)が待っててくれました。少し話をした後、母におきゅうをしてくれました。私は正直、その時点でまだびわきゅうで治るとは思ってなかったので母が家に帰ってくるのはこれで最後かもしれないと思いながらおきゅうしてる姿を見ていました。でも、おきゅうを始めて10分くらいたった頃、母は顔色もよくなり「あ!息が吸える」と言いました。
そして「いままで病院の検査で息吸ってって言われても吸えんかったんで・・・」といって大きく息を吸いました。

あの時の気持ちを表現するのは難しいですが本当に希望の光が見えた気がしました。おきゅうが終わって病院に戻る時には「酸素つけなくても歩ける」と言って母は歩いて病室に戻りました。

お盆前で忙しい中次の日もサチコ先生とあきらくんは来てくれました。病院の事情と母の体力が落ちてることもあり、家に帰れなかったのでその日は病院の駐車場に停めた車の中でおきゅうをしてくれました。

そしてサチコ先生は「明日からどうしても時間が取れないから次に来れる日まであなたがおきゅうしなさい」と言って器具の使い方を教えてくれました。不安でしたが次の日からとにかく先生に言われたとおりにおきゅうを当てました。

姉と病院に行き、姉が母を病室から連れて降りる間に私がおきゅうに火をつけて待っていました。それから病院の駐車場で毎日2時間くらいびわきゅうをしました。

車の中で毎日おきゅうをしてると私は不思議なことに気がつきました。母は病室で話してるときは苦しくなると言って酸素をつけて話すのですが、びわきゅうをしてる間は2時間近く酸素もつけず話をしているのに全然苦しくないと言うのです。

4,5日経つと、上向いてしか寝れなかったのが横を向いて寝ても苦しくないとか、トイレに行く回数が増えたなどいろんな変化が現れてきました。

初めてびわきゅうをしてから一週間経って検査がありました。おきゅうを始めてから血中酸素もずいぶんあがっていたのでCTの結果が楽しみでしたが、主治医の先生は「残念ながらよくなってない。・・・・・でも進行もしてない」と言いました。

一週間前にはものすごく早いスピードで進行していた母の病気が止まりました。その時私は、びわきゅうを続ければ母は死なないと確信しました。

それからも毎日おきゅうをしました。少しずつ良くなっていく中で、主治医の先生も「ステロイドで治る場合はこうゆう治り方じゃないから、びわきゅうが効いたんやね〜!」と言ってくれるようになりました。そしてあの余命宣告の日から1ヶ月半後の9月22日に母は無事退院することができました。10月には念願だった保養所におきゅうを受けに来ることも出来ました。

保養所に来たときは、研修会の時でみんなが勉強してるのを見ていると、サチコ先生が「あなたも勉強してみない?」と言ってくれて『私に出来るのかな・・・』と不安になりましたが、母の命を救ってくれたびわきゅうにとても興味があったので勇気をだして11月の研修を受けることにしました。退院するときは主治医の先生に「急激に悪化したときに潰れてしまった肺はもとに戻らないだろうし仕事を続けるのは無理だろう」と言われていた母ですが家にじっとしてても鬱になりそうと言って11月の中ごろから仕事に行くようになりました。

一度は死ぬと言われた母が少しずつでも働けるようになって喜んでいたのですが、12月頃から「足が痛い」とか「肩が痛い」と言い、椅子から立ち上がれないなどいろいろな症状が現れてきました。そして1月には母は1人では着替えることも出来なくなり少し触れただけでも叫ぶほど体中の痛みを訴えるようになってしまいました。

母はステロイドの副作用でリウマチになってしまいました。検査結果が出て、私はすぐにサチコ先生に相談しました。先生におきゅうを当てる場所や食事療法などを教わりました。

実は先生には内緒にしてたのですが、母は粉薬などがとても苦手で種粉を飲むのをずっと嫌がって、入院してる間も退院してからも飲んでいませんでした。でも、リウマチになってからは間質性肺炎のときとは違いおきゅうを当てる場所も全身になってしまい、私も毎日疲れきっていました。どうしよう・・・と精神的に落ち込んでいたとき、サチコ先生は私に「毎日しっかりおきゅうして、ちゃんと種粉を飲ませなさい!じゃないとお母さんのリウマチが進行して全身が固まってしまったら、苦労するのはあんたよ!」と言いました。

私はゾッとしました。帰ってすぐにサチコ先生に言われたままを言い、母に種粉を飲ませました。最初はイヤイヤ飲んでいた母でしたが、効果はすぐに現れました。1月の中ごろから種粉を飲みだし、その時にはほぼ動けなかった母が2月には少し家事が出来るようになりました。

リウマチが一番ひどかった時期に私が、母におきゅうをして着替えをさせてた時、痛みに耐え兼ねた母が「死にたい」と言ったことがありました。私がどんな顔をしてたか分かりませんが、私の表情を見た母はすぐに「嘘で」と言いましたが、多分本心だったと思います。

せっかく助けてもらった命なのに・・・と思いました。でもあの時、びわきゅうをしなかったら母はこんなに痛く苦しい思いをしないで死ねたのに・・・と、私達がしたことは間違いだったのか・・・と少し悩みました。本当は死ぬはずの命なのに逆らったからいけなかったのか・・・などわけの分からないことを考えた時期もありました。

でも私にはびわきゅうをして、少しでも痛みを取ってあげることしか出来ることがありませんでした。そして種粉を飲みながら、びわきゅうを続けて、母は3月には休んでいた仕事にまた行けるようになりました。リウマチの数値も下がってきてます。あんなに嫌がってた種粉ですが本人も良さを実感して、今では自分で量を増やして飲んでいます。

まだ膝や肩が痛いみたいですが、ずいぶん1人で出来ることも増えて種粉を飲みだしたおかげだと、とても感謝しています。
そして3月の終わりに間質性肺炎の定期検査に行った時には治らないだろうと言われていた一度潰れた肺も正常に戻っていました。あと少し影があったのは、私が怠けておきゅうを当てていなかった肺の下の角の所だけでした。主治医の先生にも定期健診はこれからは2ヶ月に一度でいいと言われるほど良くなっていました。

間質性肺炎には病態や程度を把握することができるKL−6という値があります。正常値は500以下なのですが、母は退院して4ヵ月後の1月の検査で4000ありました。KL−6値が4000台とは、猛スピードで進行している。急性増悪傾向で入院してパルス療法が必要な状態のことです。

血液検査では母の病気はまだ猛スピードで進行しています。でもレントゲンでは肺の影は消えています。びわきゅうは猛スピードで進行する炎症を、さらに早い速度で止めて、治していると言えるのではないでしょうか。3月の血液検査ではKL−6は2300まで減っていました。2300でも高速で進行しているという数値です。

私はびわきゅうでしか母は助からないと信じているので血液検査にはあまり興味がなかったのですが、最近になってこの結果に気づいて改めて、びわきゅうの凄さを実感しました。

肺の半分まで炎症が進んで肺全体が固まり、あと1ヶ月で死ぬと言われた母が死なないどころか、8ヵ月後には、完治したと報告できないのが残念なほどもうほとんど治っています。

今でもたまに、あの時びわきゅうに出会ってなかったらお母さんはもうここには居ないんだ・・・と思うと怖くなります。母の病気はとても進行が早かったので、もしもびわきゅうをする日が1日でも遅れていたらもしかしたら手遅れになっていたかもしれません。そう考えると、あの日サチコ先生とびわきゅうに出会わせてくれた兄や正洋さん、忙しい中、時間を作りおきゅうを当ててくれたサチコ先生とあきらくん、サチコ先生と一緒にびわきゅうを作り上げてくれた、会員の皆さん。びわきゅうを当てる許可をくれた主治医の先生、全ての人に感謝です。

私の職場も姉の職場も母が治るまで「待っている」と無期限で休みをくれました。そのおかげで毎日おきゅうを当てることができました。すべての人に巡り会えて、今母は生きてるのだと思います。

突然の母の死を受け入れられず、絶望の中にいた私たち家族に、サチコ先生は「希望の光」をくれました。びわきゅうに、もう一度母と過ごす時間を頂きました。私たち家族が頂いた希望を、少しでも多くの人に伝え、体験していただけるように私も頑張って勉強し、母と同じような苦しみを持った人やその家族の方に希望を与えられるようになりたいと思います。それが全ての方々への恩返しだとも思っています。

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