無憂扇きゅう(むゆうせんきゅう)

有限会社くす無憂扇(くすむゆうせん)

くす無憂扇(くすむゆうせん)では、もぐさを利用した温きゅう『無憂扇きゅう』医療器の製造・販売と会員制の保養所の経営を行っております。



会員様の体験発表

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発表者/有松 聡 先生

上級指導員15期生
無憂扇会ジャニーズのメンバー。精鋭的な雰囲気をかもしだそうとしているが
オチョコチィなやつです。立派な男になりたくて只今、修行中

事故の後遺症を乗り越えて

私の家族構成は祖父母、父母、自分、弟の六人家族です。

父は、サラリーマンで朝から夜まで真面目な働き者で、あまり怒られた記憶がありません。母は看護師、気が強く、小言が多く、自分の天敵の様な存在です。自分は、明るく、好奇心旺盛で、人を笑わす事が好きな反面、気が小さく、強がりで、不器用な男です。

小さい頃から野球をやっていて、将来は警察か消防を目指し、大学卒業後三年間挑戦しましたが、挫折しました。平成二十一年に会社勤めを始めましたが、うつ病になり、アルコールに走り、依存症の様な状態になり、退職。その後、平成二十二年にLPガスの会社に勤務。母親に、昔から薬は絶対に飲む様に躾けられており、薬を減らしたいと思っても思う様になりませんでした。

アルコールと薬漬けでいる時に、家で八メートルぐらいの高さから落下しているのを、新聞配達の人が見つけて110番と119番に電話してくれました。なんで今生きているのかもわかりません。顔面からの出血がひどく、誰だかわからずにいたところ、弟の同級生が通りがかり、気付いて連絡してくれて、家族にわかりました。新小文字病院に入院しICUに入りましたが、手術の説明や気管切開を母が納得せず、新日鉄八幡記念病院の形成外科に転院。母がつきっきりで世話をしてくれましたが、よく喧嘩になり、病室を脱走して捕まって説教されました。本来ならもう少し入院するところを強制退院ではなかったものの、そんなに動けるのなら…と早々に退院しました。最初の病院のICUのことは、ほとんど覚えていません。

今回、お話するにあたって、調べてみたところ、左頬骨、下顎骨骨折、頭蓋骨、頭蓋底骨折、左視束管骨折、左目の失明、と今更ながら、たいへんなことだったと思いました。入院している時に、一番気になっていたことは会社を首にならないかという事でした。退院後、「片目が失明していては、お金を扱う仕事は出来ないだろう」と言われました。ショックで絶望感と昔の自分に戻りたい気持で、どうしようもありませんでした。親に勧められ、近くのお寺(不動明王)に掃除や草むしりに行きました。片目の感覚に慣れず、お茶をいれてもこぼしたり、何をするのも不自由でした。それでも、何でも自分でしなければと思い、車やバイクの運転もしていました。

縁があったのか、そこで、東洋医学を勧められ、陰陽五行説などの話も聞きました。又、知人からヘルパー2級の資格を無料で取れるとの事で、勉強に行ったのですが、話が頭に入らず、そんな自分を受け入れられずに帰りの車ではいつも泣いていました。ヘルパー2級の資格が取れた頃あたりから、だんだん、逃げたい、消えたい、死にたいという気持ちがどんどん出てきて、どうやったら人に迷惑をかけずに死ねるかということばかりを考えていました。いろいろ考えて、首吊りをしましたが、失禁して気が付き、その時は思いとどまりました。それからしばらくして、母の友人の高田さんがびわきゅうをしているという事で、二、三回あててもらい、長行(北九州市の無憂扇センター)に来ないかと言われて長行の会場で初めて萬田先生にお会いしました。あててもらって、萬田先生が、何も話をしていないのに、身体を見て「あんた相当ストレスが溜まってるね」と言われたので、身体を見ただけでわかるなんて、すごいと思いました。良かったら玖珠に来ないかと誘われて、高田さんと母と三人で、お客さんとして玖珠に行きました。

初めてサチコ先生にお会いした時に、「あんたの目はまだ死んでないよ」と言って頂いたのを覚えています。そして、「あんたみたいな人がもう一人いるよ」と言われて出会ったのが、阿部祐貴さんでした。祐貴さんは十九歳の時にくも膜下出血で倒れて、両目に視野狭窄と欠損があって、最初は左側に麻痺もあっておきゅうの器具が上手く握れなかったそうでした。

サチコ先生に「二人でサウナに入って話をしておいで」と言われ、サウナに入りました。話しているうちに、お互いに性格が似ていて、聞いている音楽も同じものがあって、盛り上がり、少しずつ閉まっていた心が開く様な感じがして、祐貴さんの方が自分よりもたいへんだったのだろうなぁと思いました。

祐貴さんは十九歳の時に病気になったのだから、一番楽しい時期だっただろうに、自分以上に苦しかったのだろうと思いました。祐貴さんに「自殺しようと思ったことはありますか?」と聞いたら、「そら何回もあるよ」と普通に言われ、自分だけではなかったんだと思い、とても心が救われました。でも、そこから体調がまた悪くなり、うつというか引きこもりになって、母に精神科に入院したらと進められたのですが、精神科に入院するということが嫌だったのですが、結局、産業医科大に検査入院し、MRIを撮ったところ、頭に傷があり、高次脳機能障害ということになりました。平成二十三年七月に祐貴さんの姿を見たり、椎葉先生の脳に良性腫瘍があるのに頑張っているのに胸打たれて、まず自分の身体を治さないといけないと思って、入会しました。入った当時は何がなんだかわからず、まず灰を落とすのも上手くいかなかったので、やっていけるか不安だったのですが、これしかないと思ってやってきました。

平成二十三年九月にバイクの事故を起こしてしまって、後から車が突っ込んできて、大型のスクーターで、左に倒れたのですが、右側には電柱がありそこにバイクが突っ込んでいて、一ヶ月ほど前にフルフェイスのヘルメットに代えていたこともあり、生きる運はあるのだと思いました。

それから、母の友人の一人息子が同じ歳なのですが、脳の松果体に腫瘍があり、びわきゅうをあてに行かせてもらったところ、寝たきりの状態で、何と声をかけて良いのかわからず、自分は死のうと思ったら死ねるけど、彼はそれも出来ないのだと思いました。とりあえず、熱くなったら指を動かしてもらうように話して、今でもあてさせてもらっています。自分は幸せなのだと思いました。事故に遭った頃、母に「あんたよりたいへんな人はいっぱいいる」と言われたのですが、その時は自分がその立場にいないからそんなことが言えるのだと思っていました。

びわきゅうと出会って、色んな人と出会って、生きる希望も生きがいも無くしていたのですが、自分の経験が人の痛みとかがわかるものなのだと気が付きました。事故に遭って一年ぐらいは笑ったことが無かったです。徐々に感謝して価値観が変わったと思います。辛い時は、サッカー選手の長友の本を読んでいます。自分に言われているような、びわきゅうで教えられた事を書いてあるように思います。

長友選手の本から抜粋

おばあちゃんからの手紙

とりとめのないことを書きますが、自分で咀嚼して下さい。

命が一番、元気が一番です。

心の元気が健康のもと。

心をやわらかく。

苦しさを嬉しさに変える。

何があっても絶対に解決の方法はあります。

いいこと悪いこと、喜び悲しみは表裏一体です。

今の状況を抜けるときは、人生が飛躍するときです。

強さとは無心に尽きます。

心がない、無心に尽きます。

一流選手の条件は、長く続けることです。

上から目線は、頭しか見えません。

周りが見えません。

自分が偉いとか上手だとか思ったとき、人生の誤りが始まります。

しんどいときは先のことを考えない。

いまを最小限のエネルギーで、なんとかすること。

人にわかってもらいたいとか、変わってもらいたいと思っているあいだは、しんどさは続きます。

相手が悪いのではありません。

落ち込むと後悔の念が先に立ち、失敗ばかりに目がいきます。

抜け出すにはきっかけを掴むこと。

自分の気持ちを変えるのではなく、きっかけを待って変わるものです。

そのきっかけは、友人、先輩、子供、本や映画なんでもいいです。

悶々としているときは、思考回路が空回りします。

肩の力を抜いて、心に響く言葉に出逢うことです。

笑いは天の花。

いっぱい笑ってください。(後略)
 

高次脳機能障害とは

脳が事故や病気などで傷ついた状態になることにより、言語・思考・記憶・行為・学習・注意に障害が起こってしまった状態を言います。症状の出方は損傷を受けた部位や程度により様々です。

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